会社情報

昭和戦後(大成建設道路部の時代)

1 明治・大正・昭和戦前(大倉の時代)

昭和21年(1946年)

戦後すぐに財閥解体が行われ、大倉財閥もこのときに解体となり「大成建設株式会社」が誕生した。社名の由来は、創業の原点に還りその功績を顕彰する意義を込め、大倉喜八郎の戒名「大成院殿礼本超邁鶴翁大居士」から「大成」の2字に決定。 さらに英語のコンストラクション(Construction)の訳語である「建設」を採用し、昭和21年1月14日、新生「大成建設株式会社」となった。
社名に建設という言葉を採用したのは大成が最初であり、実に政府の中央官庁として「建設省」ができる2年も前のことである。その後、各社がこれに続きいわば業界の民主化を表わす名称として広く採用されるに至った。

財閥の機構と支配網一覧表戦前の財閥を構成していた企業の一覧表「財閥の機構と支配網一覧表」(昭和11年)。大倉財閥を構成していた企業の一覧が記載されている。

経済復興の他の一面で強調されたのは道路の整備であった。特に東京都内の道路の補修、舗装の工事が相当量おこり、またその他の各地にも道路工事が始まってきたので、昭和21年7月、土木部に道路課が新設されることになった。
昭和25年頃までに大小約70件の道路工事を手がけ、土木部門では戦後最も盛況を呈した分野の一つであった。
当時の事情をその関係の社員は次のように言っている。

「昭和21年初夏、土木部道路課が発足しました。課長、課員とも終戦で海外から引き上げてきたものが多く編入されました。当時は東京都内の戦災復興の一環として道路の舗装復旧、もしくは補修がやかましく叫ばれていた頃だったので、当社としても、時勢に応じてこの方面にも特別力を注いだ次第であります。昭和22年2月、国土再建の声が高まると、全国的に道路舗装工事の需要がふえ、当社でもこれに対応すべく、かくしてアスファルトプラントおよび道路専用のコンクリート・バッチャープラントを整備して、東京深川豊洲に舗装工事用諸機械整備場を設定するとともに、常設の瀝青混合所を併設しました」

戦後の大成建設土木部門の組織変遷

昭和31年(1956年)

株式を東京店頭市場に公開し、翌年には建設業界のトップを切って、東京証券取引所に上場した。

昭和31年(1956年)5月

アトキンソン調査団がアメリカからわが国を訪れて道路を調査し、その結果「日本の道路は信じがたいほど悪い。日本のこのような工業国で、これほど道路網をなおざりにした国は世界中に見当たらない」という報告書を、日本政府に提出した。そこで政府も、おそまきながら道路整備5ヵ年計画を発表することとなった。

昭和33年(1958年)

政府の道路整備5ヵ年計画の策定にもとづき、日本道路公団、首都高速道路公団の事業が、今後ようやく活発化することが予想される中、大成建設はこれに対応するため、従来土木部の一課であった道路課を同部から切り離して道路部とした。見積、公務の2課を置くと共に、直ちに各支店に道路課を設けることとし、10月1日に発足した。

昭和36年(1961年)

昭和39年に開催が予定されていた東京オリンピックに向けて、東海道新幹線の建設や高速道路の整備など、社会インフラの整備・充実が急がれ、建設業界においても大手建設会社が舗装工事を専門とする子会社を設立する動きが活発化してきた。
大成建設ではこうした時代背景を受けて、社内の一事業部であった「道路部」を独立させ、道路建設工事を専門とする別会社を設立させることとした。これが、当社「大成道路株式会社」である。