明治・大正・昭和戦前(大倉の時代) CORPORATE

大倉の時代

1873年(明治6年)10月

それまで鉄砲店を営んでいた大倉喜八郎(当時37歳)が銀座3丁目にて大倉組商会を創設した。

*大倉喜八郎は、越後国新発田(現新潟県新発田市)出身で後に「大倉財閥」の盟主となった明治・大正時代の実業界を代表する巨星である。設立に関与した現存企業としては、大成建設のほか、帝国ホテル、東海パルプ、サッポロビール、千代田火災海上(現あいおいニッセイ同和損害保険)、日清製油(現日清オイリオグループ)などがあり、教育面でも大倉商業学校(現東京経済大学)を創設している。また、「日本資本主義の父」とも呼ばれている渋沢栄一とも親交が深く、企業創設の際にはお互い協力しあったとされている。

大倉喜八郎喜八郎のこのような「進取の精神」は、代々の経営者や従業員に受け継がれ、現在でも「更なる技術革新と創意工夫にチャレンジし続ける」という『大成スピリット』に色濃く反映している。

大倉喜八郎喜八郎のこのような「進取の精神」は、代々の経営者や従業員に受け継がれ、現在でも「更なる技術革新と創意工夫にチャレンジし続ける」という『大成スピリット』に色濃く反映している。

1887年(明治20年)

有限責任日本土木会社が大倉組商会の土木業務を引き継ぐ形で設立されたが、その後も時代の流れの中で1893年(明治26年)に大倉土木組、1911年(明治44年)に㈱大倉組土木部、1917年(大正6年)に㈱大倉土木組、1920年(大正9年)日本土木㈱、1924年(大正13年)大倉土木㈱と組織変更、社名変更を行った。

1888年(明治21年)

有限責任日本土木会社が手懸けた最初の大規模道路工事として、長野県の上田~松本間国道「二線路松本街道」(現国道143号線)を施工。中間山岳部では、道路の紆余曲折を避けるため、青木村~本城村の全長89mの明通隧道と本城村~四賀村の全長134.5mの合吉隧道を合わせて施工した。

1901年(明治34年)

北海道開拓事業(10ヵ年)として国道136km、県道347km、里道2,234kmの新設が計画された。総予算は約1千万円(現在の価値で110億円ほどと推定される)である。このうち大倉土木組は、1902年(明治35年)に定山渓道路開削、1903年(明治36年)には天塩川上流幌別道路開削を請負った。

この時代に刊行された「銀行会社商店就職案内」と「男女就職成功法」。
両方とも現代の就職雑誌のようなものであるが、「男女就職成功法」の方は特定の会社(ここでは大倉組商会)の特色から、どのようにしたら就職しやすいかアドバイスする内容となっている。

1924年(大正13年)

この年に刊行された「東京土木建築総覧」。
社名が「大倉土木組」から「日本土木株式会社」に改称されたことがうかがえる。
但し、この年にはさらに「大倉土木株式会社」に改称している。

前年に起きた関東大震災の復興のために即座に対応し、英国ライジングサン石油会社(シェル石油の前身)と技術提携して「ガンマー式800ヤードアスファルトプラント」を輸入し、翌年にかけて千住に建設。その後の舗装工事にその威力をいかんなく発揮した。

1925年(大正14年)

大倉土木として初めての本格的な道路舗装工事である「半蔵門~麹町3丁目舗装工事」を施工。
明治、大正と「大倉」の名において幾つもの道路工事を手懸けてきたが、舗装工事を数多く全国各地で手懸けるようになったのは大正末期から昭和初期の頃からである。

この時代、東京市内で本格的に舗装工事を手がけていたのは、大倉土木のほか2社のみであった。そして、大倉土木も参加して官民合同で道路茶話会というものを設けたが、のちにこれが発展して道路研究会という組織になり、わが国道路整備の上に大きな貢献をした。

道路工事は、1927年(昭和2年)ごろから急に工事量が増えている。1927年(昭和2年)から1936年(昭和11年)ごろまでに手がけた道路工事は、大規模なものだけで約20件、請負金額も数百万円(現在の価値で数十億円)に達している。これにより、道路工事は不況時の失業対策事業としても推進され、舗装技術の進歩と相まってかなりの需要が予想されたので、大倉土木では特にその受注に力を入れる方針を決めた。

1929年(昭和4年)

道路舗装の新工法としてエマルビア工法というものが考案された。これは加熱式アスファルト舗装だとプラント設備などを伴うのに対し、アスファルトを水に混ぜて乳化させた乳剤を砕石層に撒いて、簡単に早く舗装するやり方である。いち早くこれに目をつけて、乳剤製造の特許権者と提携して、この乳剤アスファルトを各方面に売り込み、工事は大倉土木で施工するという商策をとった。

1931年(昭和6年)

これまでに培った舗装技術の集大成として冊子「道路舗装」を刊行した。これは、当時の舗装工法の中で石塊舗装、木塊舗装、煉瓦舗装、小鋪石舗装などと比してアスファルト舗装が安価で品質面でも優れていること、使用する材料、施工断面、施工時の詳細な留意事項、そして工事費までを体系的にまとめたもので、これ以降の舗装工事に社内外を問わず広く利用された。

明治・大正・昭和戦前(大倉の時代)の主な実績

大正14年:第1号アスファルトプラント、
千住橋戸町に設置

昭和3年:第2号アスファルトプラント、
横浜林町に設置

昭和4年:幹線1号路線(44米)街路工事、昭和通り

昭和5年:9号国道北足立郡浦和町~大宮町(トペカ式)

昭和5年:横浜第1号及び第11号街路車道舗装工事の内横浜駅前

昭和5年:小倉市常盤橋右広場及び船頭町及び宝町エマルビア舗装工事

昭和5年:国道一号線愛知県東阿野地区内エマルビア舗装工事

昭和5年:阿部野・堺線路面舗装工事

昭和5年:東京府千駄ヶ谷

昭和5年:仙台市役所にエマルビア簡易舗装工事施工指導

昭和5年:神奈川県藤沢簡易試験舗装工事にて社員集合写真

昭和6年:原宿駅前・エマルビア舗装工事(試験舗装)

昭和6年:高田馬場試験舗装(タール舗装)

昭和6年:熊本市役所(熊本新市街)エマルビア試験舗装

昭和7年:東京帝国大学正門前舗装工事(シートアスファルト)

昭和8年:国道17号線山口県小郡町地内舗装工事の内湯田大橋

昭和8年:城南街路新設舗装工事ノ内犬津橋基礎及び鉄筋組立工事

昭和9年:国道25号線長崎県本河内桜馬場間路面舗装工事(日見トンネル西口)

昭和9年:福岡県柳川町道路舗装工事

昭和9年:福岡県天部川柳河間舗装工事の内タール舗

昭和10年:高雄市湊町道路舗装工事その1 基礎工事

昭和11年:小樽市大通北線 色内川通~中央通間舗装

昭和11年:札幌市南一条より北一条に向う下水暗渠堀削

昭和11年:愛媛県温泉郡浮穴村森松舗装工事

昭和11年:台南市清水町一丁目~寿町一丁目舗装(トペカ式)道路

昭和11年:高雄市役所 トペカ式道路舗装工事その2