大成建設グループの道路舗装会社 大成ロテック株式会社

昭和高度成長期(大成道路の時代) CORPORATE

昭和高度成長期(大成道路の時代)

1961年(昭和36年)6月

大成道路株式会社は、道路工事、舗装工事、防水工事など、道路に関する工事の施工監理、工事用諸材料の製造販売などを営む目的で、1961年(昭和36年)6月に設立された。資本金は1億で、発行済株式20万株のうち18万8千株を大成建設が保有した。

これは前述の通り従来の大成建設道路部門を独立させて別会社としたもので、大成建設が過去に培った伝統ある特殊技術と豊富な機械力を経営者、従業員共ども全面的に移植し、広くわが国の道路網の整備に寄与しようとしたものである。

以上の経緯を経て、大倉土木の時代からの伝統を受け継いだ大成道路は、新たな舗装専業会社として発展を目指していくことになる。

設立初年度、「羽田空港エプロン増設工事」、「首都高速1号本町・鈴ヶ森間舗装工事」を完成させ、生産性向上と品質確保のため、アメリカ製路盤破砕機やドイツ・フェーゲル社製コンクリートスプレッダとフィニッシャ等を導入した。

1962年(昭和37年)

"道路造りは国造り"という機運が国じゅうに満ち溢れていた中、機械による大型施工へのニーズが高まってきた。そのため、迅速に機械の手配・整備を行える体制を構築するために、埼玉県大宮市に機械整備工場を開設した。

機械整備工場は、全国で行われる大型工事への機械の手配・整備・運転・指導など、高い施工品質を確保するためのプロフェッショナル集団として当社の強みの一つになっていく。

1964年(昭和39年)

東京オリンピック開催の年に東京証券取引所市場第2部に上場。
また同年に、将来に備えた技術開発に注力するために、東京都江東区豊洲に技術研究所を開設した。技術研究所は、この後当社の技術の裏づけとして発展を続け、業界内でもトップクラスの施設に育っていくことになる。

1965年(昭和40年)

日本で初めての高速道路である「名神高速道路」が開通。当社は、羽島・一宮間の舗装工事を担当した。このときの優れた施工技術が高く評価され、これに続く東名高速や中央自動車道の受注に結びついていく。

1966年(昭和41年)

ハーバーグリーン社製120t/hプラントを導入し、製造能力の向上を図った。このプラントは当時の最新鋭、最大級のものであり、今後の合材需要に備えたものであった。

1968年(昭和43年)

日本で初めての遮水壁による「大津岐ダム(福島県)」を完成させた。これは、当社が西ドイツのストラスバーグ社から技術導入した斜面舗装工法である。アスファルト舗装がもともと表面を硬く平らにするための技術であったが、油性であるアスファルトの遮水性に注目し、水利に応用したものである。

この後、アスファルト舗装による遮水壁建造は、ダム工法の一つとして広く採用されていく。

1970年(昭和45年)

大宮・浦和にあった機械工場を閉鎖し、埼玉県鴻巣市に最新鋭の設備を備えた機械センターを完成させた。建設機械の整備・改良、新機種開発の拠点として、時代の要請に十分応えられる体制を整えた。

1971年(昭和46年)

前年の機械センター開設に続き、埼玉県浦和市に最新設備を備えた技術研究所が落成した。大型実験室、低・高・恒温室、土質試験室の研究設備、研修室や図書館まで備えた、民間企業としては最高レベルの研究所であったことから、業界内はもとより広く社会的に評判となった。

大成道路として独立してから10年たったこの年、業界随一の機械センターと技術研究所を具備し、今後の道路建設技術の革新に備えた年とも言える。

1972年(昭和47年)

この頃表面化した光化学スモック等の大気汚染公害に対応するために、当社ではばい煙対策や防音も技術のうちと捉え、いち早く各合材プラントに公害対策装置を装備した。

1974年(昭和49年)

「東北自動車道・矢板白河間」が開通したが、これは本邦初のセメントコンクリート舗装である。当社は矢板工区を担当し、独創的な設計によるホイール式横取機をはじめ、画期的な新技術を駆使して成果を上げた。

1975年(昭和50年)

わだち掘れに強いアスファルト改質材「TR-100」を、翌年には全天候型テニスコート用舗装材「TDソフトカラー」を開発。続けて1977年(昭和52年)には車道用の透水性舗装が、そしてさらに翌年の1978年(昭和53年)には半剛性舗装の「TX工法」が開発された。

この時期、オイルショックや日米経済摩擦の影響で経済環境が悪化したが、当社の技術開発は活発化し、技術水準が大きく高まった時期であった。

1979年(昭和54年)

世紀のビッグプロジェクト「瀬戸大橋建設工事」において、当社参加JVは特殊アスファルト・グース舗装を主とした共用部北舗装工事を担当。海峡部全延長9.4Kmのうち約半分にあたる5.4Km、陸上部0.5Km、岡山県倉敷市児島~香川県坂出市与島の間の3つの島々を跨ぐ巨大な橋の上部を施工し、工事は足掛け9年半の歳月を要した。

瀬戸内海国立公園にある瀬戸大橋は、道路と鉄道の併用橋で自然と調和するように配慮されており、橋面のアスファルト舗装上の白線が橋の景観を一層際立たせている。

橋梁工事はこの他、首都高速6号線高架橋舗装新設工事、一般国道317号因島舗装工事、阪神高速道路、横浜ベイブリッジ等の舗装を施工した。

1986年(昭和61年)

アメリカワシントン州に現地法人TAISEI ROTEC INC.を設立し、当社の路上表層再生工法(ヒートリフォーミング)の高い技術を活かし、ワシントン州のディアパーク空港走路補修工事、オレゴン州の州道213号補修工事等を完成させた。

1987年(昭和61年)

当社として初めての大型建築工事の受注に成功した。瀬戸大橋の開通にあわせた「瀬戸大橋温泉会館やま幸新築工事」で、工期は7ヶ月と短く、各資材や作業員の不足などで難工事であったが、大成グループの一致団結により工期通り完成させることができた。

1992年(平成4年)

創立30周年をむかえたこの年、社名を現在の「大成ロテック株式会社」と改称した。これは、新時代に向けて道路舗装の枠を超えた幅広い建設分野への事業拡大・強化を目指そうとする経営者及び全従業員の強い決意表明であった。

また同年、従前から機械センターを設置していた鴻巣市の広大な敷地に、研修センターと浦和市から移転した技術研究所を収容する総合施設が建設された。これまで以上に充実した設備での研究開発と、大人数の長期技術研修が可能となったことから、当社の技術レベルのさらなる向上が図られ、施工品質・製品品質を高いレベルで維持することが可能となった。

昭和高度成長期(大成道路の時代)の主な実績

昭和38年:国立霞ヶ丘競技場グラウンド舗装工事

昭和40年:第三京浜道路川崎地区(その2)舗装工事

昭和43年:大津岐ダム斜面舗装工事

昭和46年:新東京国際空港第1工区滑走路延長工事

昭和47年:深山ダム斜面舗装工事

昭和49年:九州高速道路加治木舗装工事

昭和49年:中国高速道路小月・美祢舗装工事

昭和50年:沖縄自動車道路石川舗装工事

昭和50年:海洋博海浜公園園路舗装工事

昭和51年:大阪国際空港

昭和53年:イラク・ハルサ火力発電所建設工事

昭和53年:双葉ダム斜面舗装工事

昭和56年:神戸ポートアイランド博覧会駐車場舗装工事

昭和59年:南大東島亀池港護岸工事

昭和59年:新宿駅西口地下道

昭和60年:昭和記念公園

昭和60年:関越自動車道関越トンネル

昭和60年:科学万博中央プロムナード修景物工事

昭和61年:水戸市営廃棄物処分場ライニング工事

昭和61年:東北高速道路九戸舗装工事

昭和61年:富士海岸横引斜面舗装

昭和62年:四国横断自動車道川之江舗装

昭和63年:瀬戸大橋共用部北舗装工事

昭和63年:近畿自動車道丹南舗装工事

平成元年:東富士五湖道路小山舗装工事

平成元年:群馬県桃泉貯水池

平成2年:岡山TIサーキット舗装工事

平成2年:成田空港Ⅱ期エプロンコンクリート

平成2年:霞ヶ丘陸上競技場

平成3年:新東京国際空港エプロン舗装工事(その3)